現在の日本人
われわれ日本人は日本の近代史について、ネガティブな感情ばかりを教育され、
近代史については下を向いて生きるように教育を受ける、
だから、少しばかり、近代史で日本を擁護したり、
実はこんないい話もある、と言うことを話すと、教育の成果で拒否反応が起こり、
『そんなことは無い、日本は悪い国だった』と即座にいい話を拒否してしまう、
しかし明治以降の日本はそんなに悪いことをしてきたのだろうか、
われわれの先祖である祖父たちや祖母たちはそんなに悪い人間だったのだろうか、
否、われわれの先祖はその時代時代を懸命に生きようとしていただけであり、
誇りを持ち胸をはって生きてきたのである、
その歴史の中には日本人らしさや誇らしさもたくさんあり、
日本人として誇らしいものもたくさんある、その歴史を知らないのはもったいない、
先の大戦で負け、すべて日本が悪かったとした、歴史教育に疑問をもち、
少しは日本人も良いことをしてきたのではないか?と調べ始めたが、調べれば調べるほど、
日本人とはこれほどまでに素晴らしい民族だったのかと、知ることになる
『日本人ほど、誇り高くあろうとした民族は他にはないのではないか』と思わせるほどにだ、
しかし、先の大戦に敗れ、日本人が誇りを持つことを恐れたGHQにより、
教育や神道などを禁止し、誇りを持たない民族を作りだそうとした、
その計画は見事に成功したと言えるのではないか、今の日本人は自国に誇りなどなく、
個人主義に走り、国家観などなく、とうてい大戦前と同じ民族とは思えないほどだ、
しかし、今や日本人は世界でも類を見ない最低な民族となった、中共の少数民族のウイグルに
対してのジェノサイドなど関心も無く、避難決議すらだせない、他国の事など関心もなく簡単
に自国を蔑み、売り渡す、将来の子供たちになにか残そうとも考えず、今の自分たちがよけれ
ば良しと言う最低な民族になってしまった、
大戦前の日本人はとても悪い日本人だったと信じこまされ、
現在の日本人が最低な民族になっていることにも気づかない、
教育とは、実に恐ろしいものだと痛感させられる、
戦後、日本共産党は、『日本に暴力革命など必要ない、教育を変えるだけで内部から崩壊す
る』と言っているように、教育とはそれほどの力をもったものなのです、
しかしGHQと同じように、今の日本人を見ると日本共産党の思惑は、
見事に成功していると言えるのではないか、
しかし、日本人気質と言うものは教育だけではない、
遺伝子レベルで刻まれ続けるものであって、生活の一部といっても良いのである、
礼儀やお天道様が見ていると言う感覚は教えられるのではなく、
生活の中から自然に身につくものであり、
まだ日本は立ち上がるポテンシャルを持っています
今からでも遅くはない、少しずつでも先祖が何をしてきたか、
どんな誇りを持っていたかを知っていこうではないですか、
知ればきっと誇りも生まれ、日本が好きになります
ここにごく一部ですが、少し誇れるエピソードをつづろうと思います。
日露戦争 乃木希典
日清戦争で朝鮮の独立を認めさせたが、朝鮮の内部闘争により一向に改革は進まなかった
その内部闘争の中で、ロシアを頼ろうとする勢力により、
朝鮮はロシアの傀儡国家となってしまった、
これではすぐ近くに、ロシアの脅威が迫る形となり日本は気が気ではなくなってしまい
ついに日露戦争に発展するのである、
1904(明治37)旅順のロシア艦隊を攻撃することにより日露戦争は始まった、
陸戦では乃木希典大将率いる部隊が203高地を占領、
奉天(ほうてん)で総勢60万の大群がぶつかりあった、
世界でもまれにみる規模になったが勝利した
海戦では、当時最強のロシア・バルチック艦隊を破った、東郷平八郎・旗艦 戦艦三笠(みかさ)
日本軍がロシア艦隊を殲滅したことは世界に大きな衝撃を与えた、
当時世界は白人のものであり、独立を保っていたのはアジアでは、日本とタイだけであり、
有色人種の日本人が白人に勝ってしまったのだから、当時のアジア及び世界の植民地化された
国々の希望となったのである
しかし明治天皇は、いっさい喜ぶこともなく、
ロシアのステッセル将軍が祖国のために力を尽くしたことを讃え、
『将軍の名誉は傷つけてはならぬ』と勅命を打電させた、
即座に乃木希典の元に伝えられ、乃木は部隊全体にそのことを周知させた
通常、敗戦の将は帯剣は許されず、丸腰という武人としては何よりも屈辱を味合うことになる
が乃木は帯剣を許し『水師営の会見』が始まった、ステッセルはこの事を深く感謝し、
その後も乃木を尊敬したという、しかもステッセルが本国で責任を問われ、
処刑される事を聞いた乃木は処刑を減刑するようにロシアに進言している、
その上、減刑されたステッセルがシベリア送りになることを聞いた乃木はステッセルの家族に
その後、送金し続けたという
乃木希典の逸話はたくさんあるが、その一部でこれである、
この時、明治天皇がお読みになった御製の一つに次のものがある
『よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ』
「世界の海は一つであるのに、なぜ人々は争い戦争をするのか」という戦争そのものを憂う歌を歌っています。
そしてこの戦争で捕虜になった話です、このロシア人捕虜の取り扱いを称賛したのは米国の宣教師シドニーギューリック博士だった、連行された捕虜はほとんど『客』としてもてなされた
という、収容所には医師・通訳・洋式の寝台・毛布・洋食・病室には切り花が絶えず飾られた
ロシア人捕虜の妻エリザ・ルハマー・シドモアは、
『日本政府は捕虜の私的自由を与え・快適な洋式設備を整えてくれた、それは観光客が旅館で
享受できる以上のものだった、一方、下士官たちはかつて夢見たこともない天国のように豊かで清潔で快適な境遇にあった』と書き記している
第一次世界大戦
ドイツが力を着け、オーストリア・イタリアと三国同盟を結び、
これに危機感をもったイギリスがフランス・ロシアと三国協商を結びこれに対抗した、
その緊張関係のなか起こったのが、サラエボ事件である
1914(大正3年)ボスニアのサラエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺
これを発端に欧州全土に広がる戦乱に発展 第一次世界大戦が勃発する
日本は日英同盟により、三国協商側(英・仏・露)に付きドイツに宣戦布告した
日本は支那大陸のドイツの租借地だった、山東半島と青島を攻略、
また日本は三国協商の要請により地中海に日本艦隊を派遣し、
ドイツ海軍の潜水艦から輸送船や商船を護衛した
そしてアメリカが参戦したことが決定打になり、世界大戦は三国協商側の勝利で終戦した
この戦いにより、日本にドイツの捕虜4700名が五年余りの収容生活をすることになった
日本は国際法にのっとり捕虜を待遇したため、虐待や強制労働などなく、
生活は捕虜たちの自由に委ねられた、そのためスポーツや文化活動も盛んに行われ
徳島県の板東俘虜収容所(ばんどうふりょ)では
アジアで初のベートーベンの第九が演奏された、
また労働に従事する捕虜もいて、対価として賃金が支払われた、
捕虜たちは職業軍人ではなかった為、さまざまな技術を持っていた、
ソーセージ・パン・ビールなどの製造技術は重宝され
捕虜たちによって日本に浸透したドイツ文化もある
また収容所内には、菓子店・写真店・時計修理店・ボーリング場などが軒を並べ、
売店では生ビールも売られていた、
1919(大正8年)捕虜たちは本国に送還されたが、約170人が日本に残りたいと希望した
その一人がユーハイムを創業した菓子職人のカール・ユーハイムである、
他にもロースハムを考案したアウグスト・ローマイヤーなどもいる、
また日本に興味をもち日本に残って日本研究者になった者も多かった
第二次世界大戦 樋口季一郎
第二次世界大戦は欧州のドイツがポーランドに進行した事がキッカケになり、
日本はドイツとイタリアと三国同盟を結んでいたのでこの3国と、
その他連合国との大戦になった。
日本は明治の支那大陸での義和団事件をきっかけに、
支那大陸に軍を駐屯させていたこの軍と中国軍との衝突が支那事変へと拡大していく、
そしてバックで中国軍を支援していたアメリカの援蒋ルートを遮断するため、
南部仏印に、進行した事により対米戦争に拡大していくのである
その中にあってドイツでは、ヒトラーが悪名高きアウシュビッツ収容所で、
ユダヤ人の虐殺を行った、迫害を受けたユダヤの人々は戦果を逃れる為、移動を開始した、
欧州では杉原 貴畝がユダヤ人を救った『命のビザ』で有名であるが、
東で受け入れた樋口季一郎はあまり知られていない
樋口は当時満州でシベリア鉄道をつかい戦火を、逃れてきたユダヤの人々を受け入れた人物で
ある、当時のドイツは同盟国でありユダヤ人を受け入れると言う事はドイツへの裏切りであり
許される事ではありませんでした、しかし樋口は受け入れを決断、
当然これにはドイツからの猛抗議がありました、しかしそれに対して日本は
『人道に則する事象は同盟の範囲を超える』と実に立派に跳ね返しています。
その、人物は以外かもしれませんが
東條英機です、実は東條は戦争の才能は皆無でしたが、
人格者であった事はまちがいないのです。
終戦後、敗者をいたぶる東京裁判が開かれ、皆の罪を一身に纏い、刑を受け入れました、
戦後、日本人はそのことを忘れて、A級戦犯として今でも蔑む形となっています、
通常、刑が執行された時点で、その人物は罪を償ったのであり、
今でもその罪を背負わせること自体がおかしいのであります、
東京裁判といえば、こんな話もあります、戦争末期の日本には、戦地に食料の補給をするため
補給船を出していますが、ことごとくアメリカ軍に撃沈されています、
そのため日本国内の食糧事情は切迫していました。
(日本は輸送船は非戦闘船という認識があり、攻撃すること自体がためらわれた)
食糧事情に切迫した日本には、戦地で捕虜にしたアメリカ人に食料を供給することが困難に
なっていました、捕虜を監督する日本人でさえろくに食べていませんでした、しかし日本は
国際法上、捕虜に危害を与える事を禁止しており、なんとか食べさせようと、山に入り
土を掘りゴボウを手に入れ、捕虜に与えました、しかしこの捕虜は、
東京裁判で『私は日本人に木の根を食べさせられた、ひどい虐待だ』と証言したのです、
このゴボウを食べさせた日本人は死刑になりました、文化の違いとはいえ、
死刑にならねばならないような事を、この日本人はしたのでしょうか?
この一方的な裁判に今の日本人は、東京裁判史観として今現在でも縛られているのです、
ちなみに、この東京裁判の裁判官の中で唯一、被告人全員無罪を主張した人物がいます
インドのパル判事です、パル判事は法律を後から作るようなことは、
裁判として成り立っていないとし、東京裁判事態を批判しています
戦後、広島に記念碑が建てられそれを見たパル判事は激怒したと言います
そこには『あやまちは、繰り返しませぬから』と書かれていたのです、
パル判事はこれは、『アメリカが言うべきことであり、原爆を落とされた日本人が言うべきこ
とでは無い』と激怒したそうです。
おわりに
どうでしたか?日本人も過去に、誇りを持っていいのでは無いですか?
ここにご紹介したエピソードはごく一部です、他にも誇れる歴史はあります、
第二次世界大戦が始まってすぐに、イギリス軍の兵士が海を漂流していたときに、
敵軍であれば、漂流していようと、撃ち殺すような時代であっても、
シーマンシップにのっとり全員助けた、駆逐艦の艦長の話、
古代に行けば人類最古のものづくりは日本人が始めた可能性、過去記事を参照
蒙古来襲の時の鎌倉武士の強さ、戦国時代に種子島に鉄砲が伝わり、数年後には国産化した話
まだまだたくさんあります、この歴史を自国の歴史として学べるのは、
日本人としての特権なのです、学ばなければ勿体無いのです
私は、今の日本人にも誇りを取り戻してほしいし、何よりも未来ある子供たちに、
現在の誇りを奪う教育で、成長させるより、
少しづつでいいから誇りを持って生きていってほしいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
感謝
参考資料
|
コメント