経済で読み解く日本史 大正 昭和編

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経済で読み解く 日本史

われわれは、過去にたくさんの争いを重ね今現在に至ります。

ではなぜ、争いや戦争は起こるのでしょうか?

近年であれば、大きな戦争として第一次世界大戦と第二次世界大戦があります。

この二つに焦点をあて、経済の面から検証している、本をご紹介します。

『経済で読み解く日本史・大正 昭和編』 上念 司著

この本の一貫したテーマは、

人々は経済的に困窮すると、ヤケを起こして、

普段は見向きもされない過激思想に救済を求める 

です、人々は当然日々の暮らしを送るなか、働き、食べ、暮らします。

その根底である経済が困窮すれば、その状態を早く打開して欲しくて、

過激思想におちいりやすいというものです。

この過激思想が争いを起こし、戦争につながるというものです。

しかし過激思想は誰が言い出したのでしょう、それは日本で言えば、

日本を滅したい人たちです、彼らは『国粋主義者』になりすまし、

政府の中枢や論壇の中に紛れ込みました。

「支那の暴挙を許すな」「対米戦争やむなし」「バスに乗り遅れるな」

などと煽られた国民は諸手をあげて戦争拡大を支持しました。

当時はインターネットもありません、一部の新聞や月刊誌などをのっとれば

『情報操作』は比較的簡単にできた時代です。

日本はあやまった情報に基づいて『対米戦争』という誤った判断をしてしまったのです。

日露戦争まで仲間であった、英米を裏切り

『白人至上主義』のドイツ・イタリアと手を結ぶ、間違った判断をしてしまいました。

私たちが、二度と同じ間違いを、繰り返さないためにも、

『日本を滅ぼしたい人たち』はどうやって情報操作をしたのか、この人たちは誰なのか、

を知っておく必要がありあます。

われわれ日本人が誤った戦争に巻き込まれないためにも、経緯を知り、

その経緯を子々孫々まで語り継いで行かねば、ならないのです。

現在では、戦争は起こらないと考えている人がいます。

しかし、現代の戦争は、当時の『正規軍同士が戦う』戦争ではなく

情報戦・サイバー攻撃・心理戦・法律戦など、

『目に見えない戦争』です、今の日本に不得意な戦いが主です。

『戦争そのものの変化』という難題が新たに突き付けられているのです。

ところが、学校教育では、戦争は単純に:悪:として教えられ、

非難される対象でしかありません。

悲惨な戦争体験を教え、『なぜこうなったか』を教えるならまだしも、

『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』などありもしない事をでっち上げ、

常に自虐的な嘘の歴史を刷り込んでいる『朝日新聞』のようなメディアもあります。

ついでに言えば、先の大戦で、国民を煽りまくったのが『朝日新聞』です。

当時の朝日新聞の対米戦争を煽る記事の一部のタイトル

『国民は覚悟は出来ている!ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意は

すでに立っている!待つところは、『進め』の大号令のみ』

(昭和16年10月17日付)

 

本来語るべきことは『日本がなぜ対米戦争にまっしぐらに、突き進まねばならなかったのか』

という点ではないでしょうか。

当時の人々は誤った情報に振り回され、冷静な判断が出来ませんでした。

なぜ冷静ではなかったかと言いますと、度重なる経済の失政により生活が不安定で、

精神的に追い詰められていたからです。

そして「わかりやすく単純な答えに熱狂し」地獄へ道を突き進んだのです。

著者 まえがきから、一部引用

 

 

なぜ恐慌がたびたび起こったのか、

その原因は当時のグローバルスタンダードであった

金本位制にあったのです

金本位制とは、

「各国通貨は必ず金(ゴールド)と交換できることが保証されているという仕組み」

金(ゴールド)と貨幣の交換レートは固定

このシステムの問題点は金(ゴールド)が金属であり、

新たに金山を開発しない限り増えないということです。

これに対して人間の発達速度は早く、より多くの富を生み出します。

ゴールドがこの速度に追い付かなければ、人間の作る商品よりもゴールドが不足し

ゴールドの価値の方が高くなってしまい、バランスが崩れ、デフレになります。

第一次世界大戦後に起こった世界大恐慌

各国は戦時に一時停止していた金本位制にいち早く戻ろうとしたためデフレになりました。

各国がやるべきだった政策は、変動相場制の『管理通貨制度』

当時の政治たちは『ブロック経済』や戦争といった誤った政策をしました

これこそが二度目の第二次世界大戦を招いた原因です

日本はアジア主義や英米陰謀論にハマり1937年 (昭和12年)満州事変

1941年 (昭和16年12月8日)対米戦争 大東亜戦争に突入しました。

1907年(明治40年3月)日本は日露戦争の戦後処理を終え、戦中に資金調達した借金を

返すための借り換えに成功していました。

ところが1907年10月 ウォール街で大規模な株価暴落が起こりました『1907年恐慌』

日本では日露戦争後の恐慌で『戦後恐慌』と呼ばれています。

1906年(明治39)のカルフォルニア大地震をきっかけに被害が拡大するにつれ

保険等の支払いのため、ロンドンで金(ゴールド)と交換されます、

イギリスは金が流出するのを嫌って金利をあげます、すると資金が調達できなくなって

各国に影響が出ます。

すると株を買っていた投資家たちは株を売ります、そして大暴落になるのです。

1909年(明治43)に収束するが経済低迷期に入りました。

第一次世界大戦1914年〜1918年(大正3〜7)

すべての原因は人々の貧困からくる、バルカン半島の民族運動から始まり。

1914年(大正3)6月オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がボスニアの首都サラエボで

セルビア人によって暗殺され。

同年7月 オーストリアからセルビアへ宣戦布告

同年 同じスラブ系のロシアが援軍を差し向けるため兵士を動員

ロシアの動員にドイツの『シュリーフェン・プラン』が発動

ドイツの地政学的な位置を考えると、ロシアが動けば、ドイツも即座に動員しないとフランス

との挟み撃ちにあってしまいます、そこで先にフランスを叩きロシアに集中するという

プランが立てられていました。

8月1日・ドイツの総動員

同日・フランス総動員

8月2日・ドイツからロシアへ宣戦布告

8月3日・ドイツからフランスへ宣戦布告

そしてフランスがドイツに攻撃を受けました。

8月4日イギリスがドイツに対し宣戦布告

このプログラムのように発動していったのが、第一次世界大戦です。

原因はバルカン半島の人々が経済で困窮し『民族運動』が起こっていて、

冒頭の暗殺が行われました。

この戦争により、戦場から遠く離れていた、アメリカ・日本に経済の波が押し寄せ

戦争特需となり、この2国は好景気になります。

特にアメリカは物資だけではなく、英仏からの戦費を貸し出すことになり、

建国以来、ずっと債務国だったアメリカは、第一次世界大戦のおかげで、

一気に債権国となりました。

日本はお金を貸す余裕はありませんでしたが、好景気に見舞われ、

人々の暮らしは豊かになりいわゆる大正デモクラシーに入りました。

第一次世界大戦の終戦処理

言わずと知れた終戦処理に第二次世界大戦がおこるキッカケがあります。

それまでの戦争は相手国が無くなるまで、戦闘はせず、その一歩手前で止めていました。

なぜなら相手国がなくなれば、法を執行する機関が失われ、

秩序が乱れた後のコストがあまりにも高くつくことを、それまでの為政者は知っていました。

しかし第一次世界大戦からの戦争は、総力戦であり、敗戦国を二度と戦争のできなくするため

徹底的に解体してしまいました。

◎パリ講和会議・ベルサイユ体制

しかもドイツには、大規模な破壊をもたらしたとして、

多額の賠償金を課すという風潮がフランス・ベルギーを中心にありました。

巨額な賠償金は、ドイツ国民は永久に経済的に困窮したままであり続けることが、

要求されたわけです。

イギリスのケインズはこの賠償金に反対し

『平和の経済的帰結』という本を出しています。

その中で、ケインズは『ドイツに課した、巨額の賠償金は、ドイツ国民の1世代にわたって奴隷に陥れ、一国民、全体から幸福を奪うような政策は、おぞましく、それでたとえわれわれが豊かになったとしても、おぞましくそして憎むべきものである、そして敵国の子孫に対して、親の悪事を報いさせることは、許されていないのである』と言っています。

しかしケインズの論説は、完全に無視され、賠償金はドイツに課せられました。

このドイツ奴隷制度と言える政策が、のちの第二次世界大戦を生みます

第二次世界大戦までの出来事

日本では、第一義世界大戦のバブルが崩壊し、

1923年(大正12)関東大震災が起き、甚大な被害が出ました。

1930年(昭和)戦争へのレールが敷かれた時代

残念な事にこのレールの上を日本人は全力疾走してしまいました。

なぜ、このようなレールを疑う事なく、走ったのか、それは経済が低迷しているときに

当時のマスコミが(特に朝日新聞)その打開には、このレールを走ることが一番なのだと、

宣伝しまくっていたのが、一つの原因です、

また、一部のエリートの中に明らかに外国の共産党の意図を汲んで、

日本を破滅的な戦争に誘導するように動いていた人たちがいました。

1932年(昭和7)5月 五・一五事件 犬養毅首相が暗殺

1933年(昭和8)ヒトラー率いるナチス政権誕生、わずか4ヶ月で全権力を握る独裁に発展

現在の中国と同じファシズム体制になりました。ちなみに中国は共産主義的なファシストです

1936年(昭和11)2月26日未明 二・二六事件発生

過激な思想に染まった青年将校1480名が政府の中枢を襲い、占拠してしまいました。

この時の過激な思想は、北一輝などが提唱した、『国家社会主義』なるものです。

天皇を持ち出して国粋主義を偽装してはいましたが、彼らの本質は共産主義者であり

よく教科書などには『国粋主義の右翼が起こした事件』と書いてありますが、

まったくの逆で、完全な左翼思想の持ち主でした。

この時、近くをうろついていたのは、ソ連のスパイでありドイツ大使館員として知られる

リヒャルト・ゾルゲがことの顛末を本国に報告しようと様子をうかがっていたそうです。

この事件は翌27日に鎮圧されました。

第一次近衛文麿内閣誕生、盧溝橋事件 支那事変に発展 その中に通州事件などもあり

第二次近衛文麿内閣、三国同盟締結

第三次近衛文麿内閣、対米戦争50日前に日米交渉をかき回した挙句、

東條英機にすべてをなすりつけて政権を投げたす形で終了。

この近衛がやった、支那事変の拡大こそ対米戦争の帰還不能点でした。

これこそソ連が後ろで画策した『砕氷船テーゼ』のシナリオ通りだったのです。

ソ連の砕氷船テーゼ

日本を蒋介石と戦わせ、泥沼の戦いに引き摺り込み消耗させる。

さらにこの戦いにアメリカを巻き込み日本が弱体化しきったところで背後から襲って

『共産主義革命』を達成させる。

これこそが、コミンテルン第6回世界大会で確認された方針でした。

コミンテルンとは、ソ連共産党の出先機関で『革命の輸出』が目的の組織です。

この謀略を成功させつべく、日本の近衛首相と

アメリカのF・ルーズベルト大統領の周辺には大量のスパイが送り込まれたのです。

その全容は1995年に公開されたスパイの通信の傍受の記録が記された

『ヴェノナ文書』に記されています。

参考書籍

 

満州の利権でアメリカと対立し、ABCD包囲網がしかれ和平交渉も破断となり

そして真珠湾攻撃が実施され、対米戦争が勃発したのです。

まとめ

ご存知の通り日本は負け、敗戦で占領され、

WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)

日本人に戦争の罪の意識を植え付ける計画により、要は洗脳で、

日本の精神性を徹底的に叩き潰されました。

しかし、占領解除後も日本はその体制のまま、今日に至っています。

この時の戦争がなぜ起こり、どうして負けたのか、いまだに総括されていません。

原因はいくつもありますが、一つはやはり、日本を破滅に向かわせたソ連の工作でしょう。

その工作によって朝日新聞はじめ、マスコミによる戦争賛美、

そして度重なる政府の経済失策にあります。

経済がしっかりしていれば、人々は困窮することもなく、

普段は見向きもされない過激な思想に取り憑かれることもなく、

冷静に判断ができたと思います。

そして、現在われわれの目の前にある危機といえば中国共産党の脅威です。

またしても、脅威が共産党です、先の大戦では、

多くの工作員がマスコミや政府の中枢に紛れ込み、日本を破滅に向かわせました。

今現在のマスコミや政府に工作員は紛れ込んでいないでしょうか?

歴史から何を学ぶか、二度と同じ道は辿りたくないものです。

 

最後まで読んでくださりありがとうどざいます。

感謝

 

参考書籍

 

 

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